いまから400年程前の話である。
協和船岡の奥、大川前という山深いところに東兵衛という男が住んでいた。
ある雪の降る夕方、琵琶をもった一人の修験が東兵衛の戸口をたたいた。修験は道に迷ったので一晩泊めてくれないかという、人のよい東兵衛夫妻は、修験を招き入れ、熱い栗飯を出し、一夜の宿を与えた。
その翌日、修験は高い熱を出し、寝込んでしまった。何日経っても熱は下がる気配がなく、気の毒に思った東兵衛夫妻は、春までの滞在を修験にすすめた。
それから何日か経った頃、床に伏して水を飲んでいた修験は、この山奥に鉱山があることを告げた。彼の話によると、泥水の中に金気が含まれており、スッポンの生血があれば確実に探しだせるということであった。
話を聞いた東兵衛は、スッポンを探しに旅に出ることにした。老骨に鞭打ち、遠く庄内まで足を運び、ようやく生きたスッポンを連れ帰った。
旅から帰った頃、修験の病気は快方に向っていた。修験は助けてくれたお礼にと、東兵衛と共に鉱山を探しに出かけた。大川前の山奥は険しく、川のあちこちに急流が渦巻いていた。修験はスッポンの生血を布きれに垂らし、反応を見ながらようやく鉱山の在り処を探し当てた。その鉱山は銀鉱山であった。二人は大喜びで山を下ったが、途中大淵まで来たとき修験は足をすべらせ、水死してしまった。東兵衛は深く悲しみ、修験が大事にしていた琵琶とともに亡骸を小高い丘の上に葬った。
その後鉱山は大いに栄え、東兵衛に大金をもたらした。しかし東兵衛は喜ばなかった。子供のいない東兵衛にとって、金は何の役にも立たなかった。
年老いた東兵衛は、どんな財宝よりも、子供が一番の宝であることを知った。
数年して東兵衛夫妻は、相次いでこの世を去ってしまった。今、地元の人たちは彼の住んでいた場所を東兵衛屋敷と呼んでいる。屋敷跡には金が隠されているという話も伝えられている。
鉱山はその後、かつて修験が鉱山を探した時に一匹のスッポンが逃げこんだことから、亀山盛銅山と呼ばれるようになった。
また、大川前に琵琶のハンジョウという小山があるが、ここは修験の埋葬場所ということである。
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